「手帳はこんなふうに使いたい」という抱負
「手帳をこんなふうに使ってます」という実態でなくて申し訳ない。
単なる、理想の使い方の話です。
手帳を使いこなすこと
「手帳を使いこなす」という言い方を世間でよくされますが、「使いこなしている」って、いったいどういう域に達したら言えるんでしょう。
わたしが最近思うのは、
「手帳を使いこなしている状態とは、他人の目や、未来の自分の目を意識することなく、"今"のことだけを考えて、ひたすら書きつけること」
なんじゃないかということです。
人間関係においても、こなれた関係というのは、気取りや気兼ねがなく、何でもブチまけあえる関係でしょう。
そして、お互いを信頼している関係。
フランクリンプランナーを使っていた時、わたしは手帳をそこまで信頼できてなかった気がします。
「書いておいてもおかしくないこと」「万が一他人に観られても問題ないこと」を無意識に選んで書いていたし、字も結構丁寧に書いてました。
なんか、きれいにきちんと使わないと、この手帳を使ってることにならないような気がしてました。
なので、使ってはいるけど、使いこなしている手応えはありませんでした。手帳に心が開けてなかったというか……。
達人の手帳術
手帳術本とかで、「達人の手帳術」としてお手本のように掲載されている手帳やノートの多くは、「他人が見てもまるでイラスト集のように、きれいでかわいいイラストが描かれている」「文字と絵がびっしりと隙間なく書かれている」、ビジュアル的に優れた作品です。
つい、「作品」って書いちゃいましたけど、ホントに作品のようなものが多いです。
いえ。
きれいな絵が描かれた手帳が悪いと言っているのではなくて、もっとグチャグチャな魅力を持った手帳もいっぱいあると思う、と言いたいだけなのです。
誰かの目や未来の自分の目を意識した手帳じゃなくて、今の自分のためだけに書き殴られたような紙面。
そういう紙面に、変な魅力を感じてしまうことはありませんか。
わたしはしょっちゅうあります。
その魅力って、たぶん、その人と手帳との濃密な関係に嫉妬しているのに近いと思うのです。
他人の目などお構いなしで繰り広げられる、その人とその手帳だけのカオティックな世界。
そうなるともはや、「使いこなし」という言葉すら超えて、別のステージまで行っちゃってるのかもしれないんですが、わたしはそこを目指したいと願っています。
……とかなんとか書いたけど、イラスト入りの手帳やノートはわたしも作りたいと思っているし、SNSでは他人の目に見られること前提のものを書いていたりもします。
要は使い分け。
ちょっときれいめに書いた手帳を公開して、SNSで手帳好きの人たちとの交流も図りつつ、何でも話せる手帳との付き合いを大切に育てていきたい。