宇宙手帳

広く日常。

閉鎖病棟の思い出

小学校6年生の夏、伝染病棟に1ヶ月間、強制入院させられました。

夏休みに入ってすぐ、家族と親戚と一緒に東京旅行に行くことになっていました。
ところが出発の前日、わたしは微熱が出て、地元の小さな個人病院へ連れて行かれました。

医者は、「37度ちょっとの微熱だから、東京旅行に行っても大丈夫でしょう」と言ってくれましたが、夜行列車の中でどんどん熱が上がり、東京に着いた時には39度近くまでになっていました。


たぶん東京2日目くらいの夜に、母がタクシーで青山の病院に連れて行ってくれました。
わたしが待合室であまりにもしんどそうにしているので、お医者さんが順番を繰り上げてくれたとあとで聞きました。高熱のせいでわたしの記憶は曖昧です。

母が「何も食べないんです」と言うと、青山の先生は「1週間や10日くらい何も食べなくても、人間死なないから安心しなさい」と言いました。

それから注射をされて、「自宅に帰ったら、もう一度地元の病院に行きなさい」と言われたそうです。


注射が効いたのか、朝起きたら熱も下がって元気になっていました。
でもなぜか、夜の9時くらいになると、再び高熱が出てくる……という状態が、東京滞在中続きました。

お腹が壊れているらしく、食べ物が全く食べられません。
もはや旅行どころではありません(でもはとバスにだけは乗った)。


地元に帰ってから、青山の先生の助言に従い、母はわたしを日赤病院に連れて行きました。
そこで、先生にお腹を押され、「ここ痛い?」「ここはどう?」と訊かれた時に、痛かったので、「痛いです」と答えたら、先生の顔色が変わりました。
「えっ、痛いの?ここ痛いの!?」と言いながらぎゅうぎゅう押してくるので、痛い痛いと言うと、即、トイレで出してこいと言われて琺瑯の器を持たされ、検査されました。


2日後、検査の結果が電話で親に知らされたとき、わたしは昼寝をしていました。

昼寝から覚めると、母が紙袋にわたしの着替えやら日用品やらを詰めていて、「あんたは今日から入院するんだよ。もうすぐ迎えが来るから」と言われました。


いきなりそんなことを言われて動揺していると、救急車のサイレンのような音が聞こえてきました。

来たのは救急車ではない普通の白い車だったけど、赤色灯がついていて、サイレンが鳴る車でした。
近所の野次馬が見守る中、小6のわたしはひとり変な車に乗せられて、病院送りになりました。


わたしが連れ去られた後、家には保健所の人たちが来て、消毒剤を散布していったそうです。


当時、パラチフスという伝染病がどこかから持ち込まれ、微妙に流行していました。
毎日テレビで感染者が出たと報道されていました。

自分がなるとは思いませんでしたよね。


感染力はそれほど強いものではなかったようで、家族は誰も感染していませんでした。

つーか、なんでわたしだけ……って今でも謎です。

隔離生活

大きな扉で外界から隔てられた閉鎖病棟に入れられて、最初の日はよく眠れませんでした。ベッドから落ちたし。


入院した頃には、すでに平熱に戻り、食事もできるようになっていて、健康保菌者というステータスになっていたのですが、法定伝染病なので、いくら元気でも保菌者である限りは隔離しないといけなかったようです。


わたし(という新たな感染者)のことをニュースで言っていたと、誰かが教えてくれました。
実名は報道されないけど、町名と小6女子児童、まで言われたらしいから、あの近所の野次馬たちには「あの子が感染者だったんだ」とバレバレだったでしょう。
サイレンまで鳴らすことなかったのに、と今でも思います。


多感な小6のわたしは、それなりにショックを受けはしたものの、結局1ヶ月間、その病棟で外界から隔絶されて過ごすことになりました。

当時、十数人くらい入院していたと記憶しています。ほとんどが大人でしたが、小学生の男の子と、赤ちゃんもいました。


病棟から一歩も出られないので、おやつが食べたいときは看護婦さんにお金を預けて、売店で買ってきてもらいました。どんなおやつが売られているかもわからないので、いつもビスケットをお願いしていました。
今考えると、看護婦さんに渡したお金も、消毒してから「外」に持って行っていたのでしょう。


閉鎖病棟なので、外の人が病室まで見舞いに来ることは許可されていません。
ただ、「面会」はできました。飛沫感染はしないので、接触さえしなければ、面会して話すことはできたのです。ムショみたいです。


面会の人が来た時は、外の世界へ続く大きな扉を開けてもらって、話ができます。
外の人が持ってきたものを患者が受け取ることはできますが、患者から外の人へ何かを手渡すことは禁止です。


親が面会に来ると、いつも漫画雑誌とお小遣い(おやつを買う用)をくれました。
最初のうちは病棟にテレビもなかったので、恐ろしく退屈だったのです。それで、漫画ばっかり読んでました。ベッドの頭上の棚には漫画雑誌が10冊以上入れてあって、気に入った漫画を繰り返し読んでいました。


すぐには退院できないようだと知った親が、夏休みの宿題を持ってきてくれました。
宿題は悲しいくらい捗りました。

おさわり禁止

看護婦さんも、伝染病棟の勤務なんか、本当はすごく嫌だっただろうなと思います。


子供だったので、看護婦さんにじゃれて、白衣を引っ張って、「ねえねえ」と話しかけたことがありました。

そのときに、本気で嫌そうな顔をされたのを、とてもよく憶えています。


患者同士でもそういうのはありました。
隣のベッドのやさしいおばちゃんに話しかけるとき、おばちゃんの布団を軽く叩いたら、同じような顔をされました。

「病気をうつさないで」

まあ、そりゃあ、そうですよね。
外界から隔離された病棟の中でも、そんな微妙な空気が漂っていました。


それでも、患者同士の間に喧嘩やトラブルなどはありませんでした。

当時その病院は、湖畔の眺めのよい場所にありました。
ベランダに出ることは許可されていたので、夕方、ほかの患者さんたちと一緒にベランダに出て、湖に沈む夕日を見ていたことを憶えています。

同病相哀れむ的な気持ちもありつつ、複雑な気持ちも抱えつつ。

病院のエレベーター

エレベーターはあるけど、伝染病棟である2階には止まってくれません。

患者のおじさんが、「ここのエレベーターは、2階と5階には止まらないんだ。5階は精神病院で、鉄格子のある病室が並んでるんだ。廊下を歩くと、鉄格子から手が伸びてきて、ガッと掴まれるんだぞー」と、笑えない冗談を言っていました。

子供だったわたしは、なんとなく、自分のいる階と同様にエレベーターが止まらない精神病棟に親近感を覚えてしまいました。

最後の儀式

伝染病棟という特殊な病棟なので、浴室の構造が変わっていました。

浴室は、外界と病棟を隔てる大きな扉(面会の時に開かれる扉)の横にあり、病棟の中からも、扉の向こうの外界からも、出入りができるようになっています。

もちろん、普段は、浴室から外界へ行く方の脱衣所と通路は閉鎖されています。

ここが開くのは、誰かが退院する時だけです。


退院する時は、浴槽に消毒液のお湯が張られます。
患者だった人は、消毒液のお風呂に入って、いつもとは違う方の脱衣所……つまり「外」へ通じる方の脱衣所で、身内が用意してくれた服を着て、外界へ帰るのです。

すごい話です。


わたしもそんな風にして、病棟の皆さんに挨拶をして、消毒液のお風呂に入って、いつもと違う方の脱衣所で、1ヶ月ぶりにパジャマでない洋服を着て、1ヶ月ぶりの娑婆に帰ったのでした。


「外」だ!

初めて見た景色じゃないのに、すごく新鮮でした。
自分の家が、自分の家じゃないみたいに見えました。

思い出は思い出として

こうして自宅に帰ってきたワケですが、夏休みはもう終わっていました。

ついでに、クラスメイツはみんな市内にいなかった。
なぜかというと、みんな修学旅行に行ってしまっていたから。

隔離されていた間に、置いてけぼりを食らってしまいました。


あのときおみやげを買ってきてくれた友達のみんな、ありがとう。
修学旅行の埋め合わせにと、その年の秋、同じところに旅行に連れて行ってくれた両親にもありがとう。


外界から隔絶された病棟で一緒に過ごした人たち、今はどうしてるだろう。
あの笑えない冗談を言っていたおじさんあたりは、もうこの世の人ではないかもしれない。

時々ケンカもしたけど、唯一年が近くて、よく一緒に遊んでた、ちょっと年下の男の子も、今はいいおじさんになっているだろうか。わたしが退院するとき、あの子ちょっと泣きそうになってた……ような記憶があるんだけど、ちょっと曖昧だなあ。記憶補正してるのかな。


思い出になってしまうと、まあまあ美しい記憶として残るけど、伝染病で隔離される体験をもう一度したいかと言われると、やっぱり嫌ですね。


最近のニュースを見ていて、船に隔離された人の報道とかを見て、ついつい昔のことを思い出してしまいました。
2020/02/25 00:04