【ひとりごと】正当化
「何か生産的なことをしなければ、生きている意味がない」
「社会に役に立つことをしなければ、生きている価値がない」
という謎の教義に、いつのまにか多くの人が洗脳されている気がします。
そんなこと、誰が決めたんでしょうか。
わたしは最近ハッキリわかりました。
他人のために役に立つことをひとつもしなくても、人は生きている価値があるし、意味があるのだと。
自分が自分でいることを楽しみ、「よき自分でいること」を究めることの方が、ずっと生きている意味があります。
生産性など、あってもなくてもどっちでもいいんです。
他人のための人生じゃないんだし。
ついでに言えば、他人に見せるため(或いは評価されるため)の人生でもない。
音楽もやめたし、書道も篆刻もやめた。同人誌もやめた。人形趣味もやめた。TWもIGもFBもやめた。ついでにスマホもやめた。
こまめに縮毛矯正をしていたのもやめたし(地毛でカーズ様コスができそうな髪型になった)、化粧も削減したし、服を買うのも大幅に減らした。
比較的活動的に暮らしていた大阪での自分にしがみついて定期的に大阪に行っていたのも、もうやめた。
たくさんのことをやめた今、どうしてもやめられないものだけが残っている。
それが、「万年筆と手書きを愛でる」という、何の役にも立たない趣味、というより道楽。
書き物をして本を出すとかして、この趣味が社会に出ての役に立てば、「それらしい趣味」になるのでしょうが、そういう予定もないので、純粋に自分のための道楽に過ぎません。
でも、そういう道楽は誰も害さないし、誰の迷惑にもならないし、ただただ自分が楽しいだけ。純度の高い道楽だとも言える。
そうであれば、せっかく他のことをやめたんだから、
ふるいにかけた後に残った貴重な道楽に、もっとのめり込んでもよいのではないだろうか。
と思った。
これだけやめられないということは、よほど好きなんだろうから、もっと認めてやった方がよいのではと。
周りから見ればただの無駄遣いでしかないであろう、万年筆蒐集。
いや、蒐集家やコレクターと呼べるほど、高価でマニアックなものを買いあさっているわけでもない。
どちらかというと実用本位だ。
でも、外見が美しいものがほしい、という気持ちもある。
ひとつの色にこだわって、その色のペンばかり集める人もいるが、わたしはそういうタイプではないみたいだ。
いろんな色に惹かれるので、手元にはいろんな色のペンがある。ひとつに決められない。
何百本も並べて悦に入るコレクターでもないけど、1本あれば満足できるほどの実用主義にもなりきれない。
「〇〇色の万年筆を集める」という程度の単純な主義すらない。
悪く言えば、ただの中途半端だ。わたしのコレクションには「価値はない」。
しいて言えば、「そこそこ美しくて、しかし装飾的すぎず、安心して使える品質を持った万年筆」というところにこだわっている、と言えなくもない。それくらいが好きなのです。
中級クラスといわれるあたりでしょうか。5万円前後くらい?これまた中途半端。
だけど、そんな中途半端を脱して、「これから、もっと高価な、10万20万のものを手に入れたい」とも思ってません。
今くらいの感じで、よいと思えるものと出会えたら、積極的に入手していきたい、と考えています。
それでそのペンでくだらない駄文を書いて、自己満足できればいい。評価も承認も要らない(けどブログには時々上げる)。
方向性が定まったし、自己正当化もできたので、これからも万年筆は買いますね!!(←結論)
補足
実をいうと、万年筆と同程度に、写真やカメラも好きです。
こちらも結構中途半端にやってます。好きなのは一眼レフよりコンパクトカメラだし、軍資金がないから中古カメラばっかり買ってるし、写真は芸術というよりどちらかというと個人的な記録として楽しんでいます。
ほかに宇宙趣味とかチランジア趣味もあるけど、こっちはランニングコストもあまりかからないし、道楽というよりは生活の一部です。家事に近い。