宇宙手帳

広く日常。

【読書感想文】バチカン・エクソシスト

悪魔憑きの実例を紹介しながら、実際にエクソシストとして働く司祭数人のインタビューを通して、知られざるエクソシストの姿を浮き彫りにする。著者はアメリカのジャーナリスト。
悪魔や悪魔祓いに対する教会のガイドラインは存在するが、エクソシストにもいろんなタイプがおり、考え方も施術の方法もさまざま。伝統的儀式を行う人から、しかたなくこの仕事をしている人、カリスマのような人などなど。
 
悪魔崇拝者の章では、警察が「悪魔が憑いているかどうかは関係ない。悪魔セクトと称しているが、単なる犯罪組織だ」と言っている。
精神科医の章では、悪魔を信じない精神科医が「悪魔憑きといわれる症状は、本人の演技か、エクソシストが無意識に催眠術をかけているかのどちらかだ」と言っている。


以下、個人の感想。

悪魔憑きになりたがる人たち

悪魔は存在すると思う。よって、本当に悪魔に憑かれる人もいるであろう。

ただし、本書に出てくる数件のような、悪魔祓いの儀式で大暴れをするような人は、ちょっと怪しいと思う。
この本で紹介された悪魔憑きの実例では、悪魔祓いを受けた時、全員が判で押したように同じ症状を呈していた。ここが非常に引っかかった。まるで「悪魔憑きの症状の典型」という模範があって、それをみんなが忠実に真似しているような印象を受けた。
悪魔憑きは女性が多いとのことだったが、「女性なのに男の声で暴言を吐く」という症状が共通しているという。これも怪しい。悪魔がもし男性に憑いたら、女の声で暴言を吐くのだろうか?男性のケースは書いてなかったからわからない。

悪魔憑きに女性が多い理由のひとつとして、これも個人の憶測だけど、「司祭が男性だから」というのがあると思う。
下衆の勘繰りのようだが、頼もしい男性に救ってもらいたい、という願望は女性として普通にありうる。

悪魔憑きが(男女ともに)エクソシストに依存しやすいという話も、さもありなんと思う。頼れる人が身近にいない人は、悪魔に憑かれたという点を「武器」にして、エクソシストに依存する。悪魔から解放されたら、エクソシストとの関係は終了してしまうから、なかなか解放されようとしない。悪魔祓いは長期戦が多いというが、ここでもわたしは、演技を疑っている。


人は自分のためであれば、狂気のような演技くらいはするものだ。余談になるが、経験談
東南アジアの某国から来た研修生が、ホームシックをこじらせて心身ともにおかしくなったのを見たことがある。大きな声で叫び、トイレでゲーゲーいっていた。通訳のわたしに向かって、真っ赤に充血した目で、「俺は病気なんだ!わかるだろう?助けてくれ!」と訴える様子は、神経を病んだ人のようだった。自分がホームシックだとは認めず、病気だから国に帰りたいと訴えた。
病院に連れて行って、眠れないというので睡眠薬を処方してもらい、どのみちこの調子では帰国させるしかないだろうと会社は判断した。帰国が決まると、彼は今までの様子が嘘のように、笑顔を浮かべて普通に話すようになり、元気よく国に帰っていった。

エクソシストに依存したい人、あるいは、自分に起こる問題をすべて悪魔のせいにしたい人は、当然のように悪魔祓いが長期化することを望むだろうから、演技くらいするだろう。


演技といっても、もしかしたら、本人も意識していない演技かもしれない。すなわち、精神科医が言うように、解離性障害を持っている人の場合、演技しようと意識しなくても、演技が苦手な人でも、病気の力で演技ができてしまう。
また、催眠術の可能性も否定できない。腕のいい催眠術師は、人を犬のように吠えさせることもできるという。

したがって、個人的見解では、派手に暴れる人は、本当に悪魔がついているかどうか怪しい。
しかし、暴れるタイプの中にも、もしかしたら本当に憑依されている人もいるのかもしれない。

結局、悪魔憑きとはどういうものなのか

「悪魔が本当にやりたいことは何か」、という原点に戻って考えることが大事だ。「悪魔憑き」(あえて括弧つき)の奇怪な言動に惑わされて本質を見失ってはいけない。
人を大暴れさせてエクソシストを困らせることが奴らの目的ではないだろう。
奴らが本当にやりたいこと。それは、憑いた人間を神から離れさせること。更に他の人にも影響を広げさせて、より多くの人を神から離れさせること。人の世に、物質主義と快楽主義を蔓延させること。生き方の中心を神ではなく、金と物質(=マンモン=悪魔)とさせること。


その目的のために、人を長期間にわたって怪現象で苦しめたり、司祭の前で奇態を演じさせることが、果たして奴らの利益になるのか?

悪魔にとって、「悪魔なんて存在しない」と人に言わせることが無上の喜びだという。そんな奴が、自らの存在を派手に主張するようなことをするだろうか。エクソシストに向かって、「なぜこんなことをする、やめろォー!」などと低い声で唸るより、「いないふりをする」方が奴らにとっては安全ではないのか。
しかも何年にもわたって、エクソシストのところに行くたびに、自分がまだその人の中にいることをアピールし続けるというのが嘘くさい。憑いているところをエクソシストに見つかったら、さっさと出ていって、次の人に憑く方が自然ではないだろうか。


だいたい、悪魔というのは狡猾で賢いはずだ。違う人に憑いても毎回同じパターンで大暴れして、同じような卑猥な言葉を吐くというのは、あまり賢そうではない。
それに、悪魔が本当に賢いなら、憑代がエクソシストのところに行かないように、巧妙に予防線を張ると思うのだが。

悪魔に憑かれた時の主症状は、司祭を前にして暴れることではなく、大切なものに対する判断力が狂うこと。自分の中心に置くべき大原則がずれてくること。そうなると、大切なものを大切と思えなくなって、むしろそれを遠ざけたいと願うようになる。

悪魔崇拝について

悪魔崇拝者に関しては、著者も言っているように、悪魔祓いとは少しジャンルが違う。わたしがこの本を知ったのは、悪魔崇拝に興味を持った(自分がやりたいという意味ではなく)からなのだが、悪魔崇拝・魔術・オカルトの類が憑依のきっかけになることは確かなようだ。

ロック音楽や、ナントカの法則といったまじないめいたものや、こっくりさんなど、罠は世の中にたくさんばらまいてある。

悪魔がその目的を達するためには、憑依という手段をとることもあるし、憑依しなくても、自分を崇拝してくれて、人間が滅亡に向かっていってくれればそれでいいんだろう。必要に応じて憑依することもある、くらいだろうか。その方が直接その人間を動かしやすいんだろう。


わたしの考えはだいたいそんなところです。結論として、悪魔関係・魔術やオカルトには近寄らないのが一番だという考えに変わりはありません。