宇宙手帳

広く日常。

特別展 巨匠の眼(川端康成と東山魁夷)

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岡山出張のついでに一泊して、台風前の大雨の中、岡山県立美術館にこの展示を見に行ってきました。
川端康成東山魁夷の作品と美術品コレクションなどの展示です。

川端康成が、縄文時代の美術品を愛でつつ「この数千年前の土偶も、庭の樹齢数百年の木も、今わたしと一緒にいて共に今である」というようなことを言っていました。
わたしも古い文物を見るのが好きなのですが、数千年前のものを現代の自分が見ていることをふと自覚して、不思議な感覚になることがよくあります。

川端コレクションの中には、古い文物だけでなく新しい作品もあって、全くの無名だった頃の草間弥生の作品もありました。


川端康成の手紙や書も多く展示されていました。
わたしは書については初心者なのですが、川端康成の書はただ者ではない筆跡でした。
太宰治の弱々しく痛々しい長い巻物の手紙も興味深かったんですけどね。


さて。
川端康成に感銘を受けつつ、更に衝撃を受けたのは後半の東山魁夷でした。

美しく暖かく、でもただキレイなだけではなく、なぜか深く引き込まれるような、包み込まれるような絵です。


展示の最後のあたりに、東山画伯の言葉が貼ってありました。
「表には出さないが、私の心の底にも暗黒や苦悩がある。だがそれゆえにこそ、平安を希う心がある。私の絵の静謐や純粋さは、そういったものへの祈りである」といった内容でした。

これには衝撃を受けました。
悩みのない人が、美しい風景を美しく描いた絵ではない。
ドス黒く渦巻く苦悩を心に持ちながら、それと戦いながら、静謐さや平安を希い求めて生み出した作品だったんだ…!と。
もうその場で号泣しながらひれ伏したいほどの気持ちになりました。


他にも東山魁夷画伯の言葉で印象に残ったのがこれ。
「山の中で絵を描く時、筆を洗う水が少ないから濁ったまま洗うし、汚れたパレットに筆をつけている。なのに出来た絵は澄んでいる」
「絵になる風景を探してやろうという気持ちを捨てると、風景の方から描いてくれと言ってきて、私にスケッチブックを開かせる」
いずれもわたしの記憶によるうろ覚え要約で申し訳ないのですが、内容は間違ってないはずです。

この人がなんですごいのかが少しわかった気がします。

「俺がすごい絵を描いてやる」みたいなことを少しも思ってない。
むしろ「描かされている」或いは「描かせてもらっている」と思ってる。

そして自分が描いた作品でありながら、自分の考えを超えた「澄んだ」絵になっていることへの謙虚な自覚がある。


自分が作り出すものが祈りになるといいなというのを、たまたま最近自分も考えていたところなのですが、東山魁夷の言葉を読んで自分が恥ずかしくなってしまいました。自分の場合邪念が多すぎて、何か創作物を作ったとしてもそれが純粋に祈りにならないことばかりです。
いいのを書いてやるぞとか、人をアッと言わせたいとか、チヤホヤされたいとか、そういう邪念ですね。
そういう動機で書く(描く・演奏する)方が簡単だから。

偉大な文豪や画家にもそれぞれに苦悩があって、内なる戦いをしながら謙虚な思いで創作をしているということを思い知るためにも、このような展示を観ることは、自分にとって不可欠だなと改めて実感しました。

この展示を観て本当によかった。
台風前の荒天の中、1日岡山に残って正解でした。
美術館に入った時は土砂降りでしたが、美術館から出たら雨は上がっていました。
台風が来る前にと大阪に戻りました。