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茶房日誌

烏龍の日記。Instagram ID: @oolongchai

手書きとワープロ

日常生活

ご無沙汰しております。

ツイッタの手軽さがクセになって、すっかりブログから遠ざかっております。申し訳ありません。
しかしそのツイッタも、ここ数ヶ月はちょっと飽きてきてツイート数は減ってきています。
ツイッタで細切れの言葉をボソリボソリと発するばかりじゃなく、たまにはまとまった文章を書いた方が精神衛生上もよさそう。



で。
ツイッタで時々浮上する「手書きの文 VS キーボードで打った文章」みたいな問題がちょっと気になっています。
(どっちに軍配、という結論のある話ではないので期待しないでください。)

手書き派の主張は、「手で書いた方が心がこもる」「ワープロばかり使っていると漢字が覚えられない」「紙にペンで書く書き味がいい」など観念的・感覚的になりがちで、根拠としては弱い気もします。
極端な人になると(ある小説家の言葉ですが)「ワープロで小説なんか書けないよ。あんなもので書いたら小説にならない」というようなことまで言ったりしています。

ワープロ(キーボード)派の主張は明確で、「手で書くより速い」「修正・変更・編集が楽」「仕上がりがきれい」といったところ。
これには反論しにくいですよね。



わたしは趣味が完全にオヤジで、カメラとかが好きなんですが、万年筆も好きです。
万年筆と相性のいい原稿用紙、などというものを雑誌などで見かけると、つい買ってしまいます。なので、まず物的愛着という観点から、手書き大好きです。
手帳は断然手書き派です。でもこれもどちらかというと物的なところに端を発していて、「インコのシールを手帳に貼りたい」というのが主な理由です。

物的執着以外の面でいうと、
ワープロ(iPhoneなどの入力も含む)だと、汚い言葉を書くときに抵抗が薄いなあ」
というのはよく感じます。日記とか友達宛の手紙とかの私的な文章を書く場合ですけど。
たとえばバカとか死ねとかクソとかですね。
そういう言葉は、お気に入りの万年筆でお気に入りの紙に書いている時は、書こうとしても何らかの抑制が働いて、その言葉を書くのを思いとどまる気がします。
でもデジタルだと抵抗なく書けちゃう。あまり理性的でない。

たぶん、キーボードを打って書く文章は、手で書く言葉より、口でしゃべる言葉に近いのだと思います。
ワープロ文は見た目が活字だから文章語っぽく見えるけど、打ってる本人はしゃべるような気持ちで打ってることが多い。ワープロで作成された文章は読みやすい印象があります。



最近、なぜか青空文庫にハマっているのですが、明治大正の文豪が書いた文章はすごいですね。あの文章の完成度と食い込むような鋭さと重厚さは何なんだろう。
文豪たちのプロフィールはWikipediaで見てもため息が出ます。
現代の作家とは段違いの知性と教養。その知性や教養が文章に力を与えていることは間違いありません。

が……それ以外の要素としてもしも、手書きとワープロという手法の違いも少しは関係していると仮定したら。

時代的に言って当然あの人たちは手書きだったワケですが、手書きで文章を完成させるのは大変だったと思います。
書き始める前に、相当煮詰めて追い込んで、勢いこんでペンを握ったのだろうと。
気迫というのか。なんかそういうのが伝わってくる気がしたのです。

ワープロで文章を書こうとする時も、勿論ある程度、頭で煮詰めてから執筆に入るとは思います。
が、「間違えても跡形もなく消せる」「書き忘れがあってもあとから簡単に挿入できる」という安心感が頭のどこかに常にあります。
そういう気持ちでとりあえず書き始めるのと、文豪が極限まで追い詰めた脳内の文章をペン先から迸らせるのとは、そりゃあやっぱり何かしら違うんじゃねーのと。
青空文庫を読みながらそんなことを考えたのでした。




そういえば過去に雑誌に載せていただいたり賞をいただいたりした文章は、全部手書きだったなあ。ワープロで書くことが多くなってからはさっぱりそういうのないなあ。
まあそもそも応募してないから当然だけど。ワープロで書いた文章はなんだか応募しようという気も出ないんだよなー。

こんなことを書いてたら、ワープロ派の人から、自分はそんないいかげんな気持ちで書いてない!とお叱りを受けそうで怖いのでこの辺で。

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